どうも、真木(さなぎ)です。 株というか、証券取引の用語を調べまくった結果、やっぱり大手が作成した解説は分かりやすいなぁとしみじみ感心している今日この頃です。
自己紹介記事で書いた宣言通り、調べ物のアウトプットを目指して記事を書こうと今も画策中です。
ただ、調べた事をただ単にコピペしたりなんなりした、それこそ大手が作成した記事の出来損ないみたいなものが出来上がる始末。。。
見る人は主に私という前提で書いているのにも関わらず、恐らく(十中八九)投稿後は二度と見ないレベル。
本人が二度と見ないものを公開することに、はてさてなんの意味があるのかと自問自答を繰り返す事態に陥っていました。しんどかったですね。
なんか光明が見えた気がした&その検証という意味も込めて、この記事を書いてみました。
泣き言や御託はここまでにして、本題をば。
覚えて終わり、だから何?となる
過去に没にした記事を観察してみると、以下の特徴がある事に気づきました。
ただの情報の羅列
覚えましたアピール
お気持ち表明レベルの雑感が所々に少々
改めて書いてみると、中々に酷い特徴達ですね。。
はい。こんなものをわざわざ読み返すくらいなら、調べた用語集のURL一覧を振り返った方が5000兆倍マシとなる訳です。
実際にこう言った知識を活用して何かをするというレベルになった時、結果として暗記はある程度達成されているのがもう前提みたいな状態になっているのが常だと思います。
過去の経験上、覚える事自体を目的にして暗記した物事は、正直今は全く覚えていません。
「微かに、なんかそんなのあったような、無かったような、、、、」みたいなものを残す為、多大な労力と時間と精神力をつぎ込むのは愚かしい行為に思えます。
(というかもうやりたくないです。。。)
無論、暗記の全てが駄目かと問われればそうではないと断言します。
具体的には、ひらがな、カタカナ、ローマ字といった言語の基礎とその並び順とかが、最たる暗記すべき例と言えるかなと。
ただ、この手の話は今回あまり関係が無いので別の機会にでも。
話を戻すと、つまりは覚えるとかそんな次元の話で考えていると、どうにも上手く行かないみたいというのが結論ですかね。
大事な事って何だっけ
駄目な事は分かりました。
では、駄目じゃないというか、むしろ良い事ってそもそもなんなんでしょうかねぇというのが気になるところ。
考えるというより、悩んでいるなとふと気づいて、思いました。そうや、原点に帰ろうと。
「書いて意味のある事って具体的になんでしょう。」と自問してみました。
書いていて、或いは書いた後に見返して、なんか意味が無いなぁと思った事って、
実際公開するレベルの意味は無かったよね、
みたいな結論になる事が多い印象。
問題なのは、そこでやめてしまう事、というより、
一発で公開レベルのものを書くという「出来ない事をやろうとしている事」だったのかなと。
じゃあ、出来る事って一体なんでしょ。
それって、「自分が見返したいと思えるものを書く」事なのではと。
じゃあ、自分が見返したいと思えるものってなんでしょ。
それって、「おぉ、これは気付かんかったな。メモっとこ。」みたいなものではと。
じゃあ、メモった事を見返したら、その後何が嬉しいんでしょ。
それって、「あぁ、そうだこれこれ。おかげで先に進めそうだ」となることではと。
じゃあ、先に進めそうな状況にしてくれるメモっていったいなんでしょ。
・・・それが分かったら、というか分かってたら今頃デイトレードで荒稼ぎしてウェイウェイやっているだろうなと。ほぼ未来予知やんけ。
つまり、先に進めるか否かについては、ある意味では考える必要が無いというか、考えるための材料も経験も何もかもが足りないというか、、、、
ともかく現時点では、「おぉ、これは気付かんかったな。メモっとこ。」について、それなりに文章を整理して記事っぽく書けばオーケーなのだなという事が分かりました。
ここまで来るのに数週間
記事にしてしまうとなんともあっけない。。。
それもそのはず。結論に至るまでの悩みや、考えが分岐した結果イマイチ要領を得ないもの等に関してはバッサリ切り捨てましたので。。。
心情的にはまあ、空しいものがあります。
ただ、過去にそういったものも含めて全部を頑張って必死こいて書いた記事を見返した結果、
「お前は何を言っているんだ?」
しか頭に残らないという、ある意味では更に空しさを超えた虚しさを体感した経験から、
今では逆に必要な事だと納得してやっている事ではありますね。
(上記で書いた虚しさを二度と味わいたくないという思いからというのが一番強いかなと。)
誰かの為にってなんだろね
世間と言いますか、世の中は意外にも厳選されたエッセンスがあちらこちらで公開されています。
かといって、全てがそうという訳でも決してなく、人によってはありふれたものであったり、すごかったりするという、言ってしまえばただそれだけなのかなとも思ったりしました。
誰かの為にという思いは確かに重要です。
が、恐らくは、
「『自分にとって嬉しい』を一番の核にしたら、結果論的にたまたま皆に喜ばれるものであった。」
という状態が、皆の役に立ったという風に言われているのかなと私は思いました。
その誰かの為というのは案外、その誰かに自分を含める事が、一番初めのステップなのかなと。
自分が満足出来たら、次は他の特定の誰か1人、次は2人、次は・・・のように、最低限この人にだけは、この人たちにだけは、みたいな感じで一歩ずつ進めていくのが理想ですかね。
(状況によって最低限はコロコロ変わるとは思うので、これを一歩と呼んで良いものなのかは少し疑問に思えますが、、、)
最後に
「結局は自己満足じゃねーか!!」と言われればそれまでの事です笑
ただ、意外に、この結論が大事だったりする訳ですよ。
でないと、評価の主軸を他人に預ける事になりますから。。。
そうなるとつまり、何かを公開する毎に、他人の評価と言う名のモチベガチャを回し続ける。そんな運ゲーをやり続ける事になる訳ですね。
ちなみに、そのガチャにはマイナス効果を持つものもピックアップされていたりという。
とてもじゃないですが私はやりたくないですね。
これからガチャの権化とも言えそうな、デイトレードを勉強しようとしてる人間が何言ってんだって話だとは思いますが笑
2024/12/04 真木顕成
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